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1650年代は、中国の内乱によって中国産やきものの海外輸出が中断しました。変わって日本のやきものが海外へ盛んに輸出されます。肥前一帯の窯にも注文が増え、多くの窯が
築かれました。また、この年代に肥前のやきものの生産技術が飛躍的に向上します。
波佐見にも多くの窯が築かれ、大村藩は三股に皿山役所を設置し、直接的な管理体制を整えました。咽口窯跡、辺後ノ谷窯跡、木場山窯跡などが代表的な窯で、海外輸出用の大きな染付鉢や青磁皿を生産します。多くは、東南アジア方面
は輸出されました。
| ■皿山役所の設置 |
| 江戸幕府の全国統一が終わり、世の中が安定すると各藩では農業増産はもとより、領内の
地場産業に力を入れました。 寛文5年(1665)、大村藩主純長公は、三股に皿山役所を設け、押役を置き、四箇所
の皿山にも役人を配して、その助成保護に当たらせ絵具の購入、製品の買い上げ、販路の
拡張、資金の貸付など、積極的に殖産政策を推し進めました。製品は大阪方面
まで出荷さ れ、この頃から波佐見焼の発展はめざましいものがありました。 |
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1690年代には中国の内乱が収まり、再び中国産やきものが海外へ輸出されました。海外からの注文が減った肥前の窯は、国内向けのやきものを多く生産するようになります。波佐見の窯は、とくに庶民が買える安いやきものを生産しています。
この年代の染付の器は一般に「くらわんか茶碗」と呼ばれ、日本中の人に広く親しまわれました。江戸時代の終わりころには、中尾上登窯跡、永尾本登窯跡など世界有数の巨大な
登窯を築いて、くらわんか茶碗を大量に生産しました。 |
▲くらわんか碗
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明治維新で皿山役所が廃止され藩の保護がなくなると、窯元やそこで働く人々は困難な道を歩くこととなりますが、彼等は互いに助け合い、苦労しながらも新しい技術の導入によって窯の火を守りつづけました。明治以降、やきもの作り全般
にわたって、大きな改革が行われました。
天草陶石が使用されるようになり、安定した品質の高いやきものが作られるようになります。陶石粉砕はそれまでの唐臼から水車へと次第に変わり、また、電力の利用による陶土製造がはじまります。成形では蹴りロクロに加え、動力ロクロも登場します。下絵具では、 合成呉須(人工コバルト)が使われはじめ、また銅版転写が導入されます。釉薬では、石灰釉の使用がはじまるのもこの頃です。
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▲明治時代の碗・杯
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波佐見に石炭窯が初めて導入されるのは、大正四年です。
燃料として石炭が使用されますが、最後の攻め焚には、やはり薪(タタラギ)が使用され
ました。この頃石膏型による鋳込み成形が登場し、袋物の量産が可能となります。
ゴム版による絵付もこの頃始まりました。 |
▲徳利・波佐見諸窯出土品
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